松井智司の「美」 その7 変化

第2の変化は家業に訪れた。

智司少年が小学校に入った頃、国が始めた無謀な戦争は徐々に敗色を濃くしていた。相次ぐ局地戦の敗北で船や飛行機が足りなくなり、材料に困った政府は鉄の供出を民間に強制した。織物など戦争にあまり関係がない業界が真っ先に狙われた。織機を取り上げられた「松井工場」は機屋を廃業せざるを得なくなり、「赤城発条」と社名を変えてスプリングを作り始めた。太田市にあった中島飛行機に納品する部品である。軍需産業に変身しなければ生き残れない時代だった。

小学校2年生で敗戦を迎えた。これでやっと機屋を再開できると胸を撫で降ろしたのもつかの間だった。その秋、父・實さんが倒れたのである。一家の大黒柱が病の床につき、工場の操業が止まった。母・タケさんは広沢町の実家の絹の靴下工場を見て松井工場で靴下を作り始めたがあまりうまくいかず、間もなく東京に本社があったトリコット工場に貸した。

そして昭和23年、實さんが肺炎で世を去る。松井家は火が消えたようになった。中学校を目前に、智司少年はくわえていた銀のさじを失っていた。

そして、3つ目の変化は思いもかけないところに現れた。智司少年のデザインが認められたのである。

中学の卒業アルバムのデザインが校内で公募された。公募といっても, 3年生は全員、アルバムのデザインを考えて提出せよ、というのだから、見方を変えれば強制である。

①金をかけないこと
②使いやすいこと

の2つが、課された条件だった。

絵が

「からきし下手」

を自認していた智司少年も出さざるを得ない。あれこれ考え、鶯色の表紙のアルバムを提案した。何と、それが採用されたのである。

「まさか、私のデザインが通るとはね。ほんと、予想もしていませんでした」

子どもの頃から美しさに取り囲まれて育ってきた美への感受性が初めて形になった、ともいえる。智司少年の爪が、皮膚を破ってほんの少しだけ外に出た瞬間だったのかも知れない。

それに、コストを抑え、使い勝手がよい、というのはいまの松井ニット技研のマフラーに通じる哲学でもある。

智司少年は、智司社長への道を半歩、いや100分の1歩かも知れないが、この時踏み出したのだと筆者は考える。

写真:松井智司少年デザインによる中学卒業アルバム。すっかり古ぼけてしまったが……。