松井智司の「美」 その8 糸杉

昭和28年(1953年)、智司少年は桐生高校に進んだ。父・實さんはすでにない。東京の会社に貸していた工場の契約が終わったあと、母・タケさんは市内の機屋さんから中古のラッセル機を譲ってもらい、編み物工場を始めた。セーター地や安価なカーテン地を作って細々と家業を継いでいた。

タケさんは實さんに嫁ぐとき、

「我が家の身上(しんしょう)の半分はお前が稼ぎ出した。それをすっかり持たせてやるからな」

と両親にいわれたという。広沢町から途中にある渡良瀬川を渡し船で渡って桐生女子校に通いながら、それほど実家の仕事を手伝っていたのである。それだけに、夫を亡くして一家の大黒柱にならざるを得なくなったとき、

「自分ががんばらなければ」

と踏ん張ったのだろう。

智司少年が高校に入る頃、市内の職人さんにラッセル機の改造を頼んだ。パッとしないセーター地などに見切りをつけ、東京の問屋に勧められたマフラー生産に切り替えるためである。セーター地などを作るラッセル機は、そのままではマフラーの房を編むことができない。マフラーを作るとなると機械を改造し、房も編めるようにしなければならないのだ。

子どもの頃から工場が大好きだった智司少年は毎日のように工場に入り、職人さんの仕事を眺めた。職人さんの手でらラッセル機が生まれ変わる。まるで魔法を見ているようで夢中になり、改造法を脳裏に刻み込んだ。それがのちに、自分で編み機を改造し、いまの松井ニット技研のマフラーを生み出すことになるとは、当時の智司少年が知るはずもない。