松井智司の「美」 その9 京都工芸繊維大学

兄の隆さんは家業を継ぐことを嫌がり、すでに家を出て大阪の染料会社に就職していた。であれば次男の自分が「松井工場」を継がねばならない。そのためには、もっとたくさんのことを知らねばならない。中学の時は京都工芸繊維大学への進学を漠然と夢見ていたが、この頃には

「京都工芸繊維大学に行く」

という決意を固めていた。

ところが、入試が目前に迫った高校3年の秋、母・タケさんの体調が急におかしくなった。おそらく、自分ががんばらねばと積み重ねてきた無理がたたったのだろう。勝ち気な明治女である。朝は早くに起き、夜は遅くまで夜なべ仕事を続ける。子供たちに、自分が寝ている姿を見せたことがなかった。それが一気に吹き出したのに違いない。医者に診せても、なかなか快方に向かわない。それでも母は一家を守るため仕事から離れない。

「これは、大学に進むのは無理だな」

智司少年は一人決意する。自分がそばにいて母を支えなければならない。

兄は

「だったら地元の群馬大学工学部(現理工学部)にしろよ。あそこなら家から通えるじゃないか」

と進学先を変えるように勧めてくれた。群馬大学工学部は、桐生の旦那衆が繊維産業の各分野の専門家をたくさん育てようと大正4年(1915年)に作った「桐生高等染織学校」が始まりである。この当時も繊維に関係する教育・研究のレベルは高かった。「松井工場」に生かせる知識も豊富に得られるはずである。

しかし、智司少年の決意は変わらなかった。 俺は大学には行かない。