KNITTING INN その11  KNITTING INN

当初は順調に進むかに見えた若手デザイナーの独立は、何が悪かったのか、3年ほどで躓いてしまった。松井ニット技研からは「Knitting Inn」ブランドのマフラーや生地を作る仕事がなくなり、「Knitting Inn」」のブランド名も、いつしか智司社長の記憶から消えていた。

さて、それはそれとして、美術館に商品を出すのに、ブランド名を決め決める必要に迫られた智司社長、敏夫専務はアイデアを出し合った。

まず敏夫専務が

「『EL MONTERO』ではどうだろう」

と言った。京都外大スペイン語学科を出た敏夫専務はスペイン語に習熟している。「エル・モンテーロ」は英語で言えば「THE HUNTER」、日本語に直せば「狩人」、「勢子」、という意味だ。獲物を求めて馬を駆ける。やがて身体が温まる。呼吸をするたびに口から吐きだされる息が真っ白い朝だ、松井ニットのマフラーを首に獲物を追う狩人。活動的でいかにもオシャレである。

だが、智司社長にはふと蘇る記憶があった。あの若手デザイナーが使っていたブランドである。

「それも素敵だね。でも俺は『Knitting Inn』にしたいと思うんだ」

そんな言葉が智司社長の口からこぼれた。あの、何とも響きのいい言葉が記憶の底から突然浮かび上がったのだ。

「松井ニット技研はニット製品のメーカーだ。だからKnitting。それにInnをつけると、オシャレっぽくなるだろ?」

智司社長の脳裏で息を吹き返したのは、若手デザイナーに協力した日々だけではなかった。もう一つ、なぜか、中学2年生の時に学んだ英語の教科書、「JACK & BETTY」の中身がフッと浮かんだのである。

それはこんな話だった。
フランスの紳士が英国旅行に出た。紳士は木賃宿=Innに宿を取る。夕食をとろうと食堂に降りていくと、突然卵料理が食べたくなった。それを宿主に伝えたいのだが、困ったことに、英語で卵を何というのかが思い出せない。

紳士は言った。

「ちょっと教えて欲しいのだが、ほら、chicken(鶏肉)は何からとれるのだったかな?」

宿の主人は答えた。

「そいつはhen(雌鳥)ですよ」

「そうだったね。ところで、そのhenは何を産むだろう?」

「旦那、それはね、私たちの国ではegg(卵)というやつだと思いますが」

「そうそう、そのeggが食べたいのだが、料理出来るかね?」

智司社長は高校生時代、私塾に頼まれて英語の講師をするほど英語が得意だった。というより、中学生の頃から英語が大好きだった。

それにしても、60年ほど前に勉強した教科書の一節がこんな時に蘇るとは、人の記憶とは不思議なものである。

「専務と相談しているうちに、私の中で、Innという言葉が、なぜかあの教科書に出てきたInnと結びついてしまって、専務が何といおうと、新しいブランド名はこれしかない、って思ってしまったんです」